タイル探訪 その2:地域、歴史、風土への共感

時を超えるタイル

塚本由晴(建築家)

有田焼の事物連関を歩く

次は大劇会館のタイルが生産された有田に向かう。道すがら武雄温泉新館(辰野金吾1915年、復元工事2003年)に寄り、五銭湯、十銭湯や、殿様湯、家老湯など、財力や階層の違いを反映した風呂、そして大正天皇の行幸(1926年)に合わせてつくられた幻の浴槽を案内いただく。佐賀行きの前に天皇が崩御されたために使用されることなく、埋められ滅却された浴槽は長いこと忘れられていたが、先の復元工事で発見された。洗い場には中央に白花を凹凸付きであしらった緑のマジョリカタイル、浴槽には草花の青絵のタイルが張られている。その1枚に署名が残る辻製造所(現辻精磁社)は、明治時代から御所の晩餐会に使う器を納める有田町の窯元。その原料となった白磁鉱は町内の泉山から採掘された。17世紀初頭、朝鮮から渡った陶工、李参平らによってここで陶石が発見され、鍋島藩によるやきものづくりが始まり、有田焼が生まれた。オランダの東インド会社を通して、ヨーロッパへも販路を広げるほどの生産量を誇った結果、山ひとつ丸ごとなくなった姿が現在の磁石場跡である。泉山の白磁鉱は、茶褐色の火山性の流紋岩が近くの英山の噴火で蓋をされ、長期に渡る温泉効果で白色になった「変質流紋岩火砕岩」。採掘された岩石は、盆地に流れ込む小川の水車で粉砕され、水で練られて陶土に加工されたという。その製造行程の今を嬉野市の香田陶土に見学に行く。土場で色や大きさで仕分けされた白磁鉱(現在は天草産)から、鉄分を含む茶色い表面部分をハンマーで割り取る「磨き」。工場で回転軸についた半月状のギアで杵をもち上げ臼に落下させる「粉砕」。粉末状に挽いた陶土を水と混ぜてスラリー状にしてタンクに貯蔵、沈澱させる「攪拌、水ひ」。沈澱したスラリー状の陶土から鉄分を除く「脱鉄」。スラリー状の陶土をフィルタープレスにかける「脱水」の工程を辿る。酒粕を思わせる漉し取られた白い板状の陶土は、練りの後に棒状に整形されビニール袋に詰められ出荷される。白が命なので水は清麗でなければならない。自宅裏の池に溜めた山からの湧水が使われている。
有田町に戻ろう。李参平を祀る陶山神社には、有田の陶磁器の開祖にちなんで陶磁製の狛犬(1887年)や青絵の白磁鳥居(1888年)がある。窯元が並ぶ表通りから1本入った裏通りにあるトンバイ塀は、登窯を築くために用いた耐火煉瓦(トンバイ)の廃材や、使い捨ての窯道具を赤土で塗り固めつくったもの。多様なかたち、大きさ、色、艶の窯片が混ざり合っている。トンバイ塀に立派な門構えがあるのが辻精磁社。案内された玄関脇の小部屋と奥の座敷で、赤と青で竜と鳳凰を描いた花紋皿を見つけ購入。ここでは地形、街並みから散歩までが有田焼の事物連関の中に位置づいている。
日本における磁器の起源であり、それをヨーロッパに広めた有田に、陶磁器文化の核となる施設を起こそうと、町が敷地を提供し、県が設立し、九州各県の後援による広域文化施設として国の補助を得て、街を見渡す丘に佐賀県立九州陶磁文化館(内田祥哉、アルセッド建築研究所、1980年)が建てられた。深い庇、二重の屋根、30cm角の磁器タイルで包まれたコンクリート躯体など、九州の気候風土を考慮した耐久性を高める計画になっている。館名・室名サイン、ドアノブ、ベンチ、茶室の柱の礎石まで、普段使わないところにプロダクトデザイン的に陶磁器を使う遊びごころも発揮されている。

【写真資料】武雄温泉新館(1915年、辰野金吾、佐賀県武雄市)

武雄温泉組(現在の武雄温泉株式会社)が、楼門と共にこの建築を辰野・葛西建築事務所に設計を、清水組(現在の清水建設)に施工を依頼した。2003年に設計当時の図面を基に復元され、2005年に国重要文化財に指定されている。

①:楼門から見た武雄温泉新館。
②,③:武雄温泉新館の中の十銭湯浴室と五銭湯浴室。十銭湯浴槽の床には和製マジョリカタイルが敷き詰められている。和製マジョリカタイルとは、イギリスから輸入されたマジョリカシリーズのタイルを模して日本の複数のメーカーが製造販売した多彩式タイルの総称。こここで使われているものはマジョリカタイル生産初期のもの。

④:一般公開はされていないが大正天皇の行幸のためにつくられた浴槽。一度も使用されず地中に埋設されたが、2003年の復元工事で掘り起こされた。浴槽床のタイルは有田町辻製造所(現辻精磁社)製。
⑤:別棟の現在でも入れる家老湯(殿様湯もある)。和製マジョリカタイルが使われている。

泉山磁石場(佐賀県西松浦郡有田町)

朝鮮から来た陶工李参平がこの泉山で陶石を発見し日本で初めて磁器の大量生産を行い有田焼として日本中に広がった。

有田焼400年の歴史を支え続け、1980年に国の史跡に指定。現在ここでの採掘はなくなり熊本県天草の陶石などを使って有田焼はつくられている。

物語を紡ぐフェニックスモザイク

最後は長崎にある日本二十六聖人記念館、聖フィリッポ教会(今井兼次、1962)。日本二十六聖人は、豊臣秀吉の命により1596年に京都、大阪で捕縛され、京都で片耳をそがれて引き回され、翌年に秀吉の命で大阪から長崎まで歩いて西坂の丘で磔にされた26名のカトリック信者(外国人司祭・修道士6名、日本人信徒20名)のことである。日本で最初の殉教者の遺骸は世界各地に送られ、磔の情景は絵画や版画で伝えられたため、日本よりヨーロッパでよく知られていた。この殉教者たちは1862年にローマ教皇ピウス9世により聖人に列せられ、列聖100年にあたる1962年に西坂の丘に二十六聖人のブロンズ像を擁した記念碑「昇天のいのり」(彫刻家、船越保武)と、記念館と教会が建てられた。記念館と教会の設計者である今井は、妻のマリア静子を失った翌年の1948年、53歳の時に洗礼を受けたカトリック信者。殉教者を記念する建築を設計するにあたり「既存の殉教の丘と記念碑との相互の生き方」「建築群の全配置に宗教的シンフォニックな律動感を与えて統一」「建築体に関わる構成部分はことごとく宗教表徴の諸形象の展示そのもの」(『新建築』6208)という方針を立てた。2階建ての記念館は、記念碑と共に西坂と丘をしっかり掴み、教会の2本の塔は、人びとの暮らしの場である住居で覆われた丘を背景に、捻れるように天に伸び独特の生命感を放っている。記念館の壁、床、柱、梁、窓、ドアノブなどの構成部分のいくつかは、カトリック教会の表徴体系に位置づけられながら個別に形象化されている。装飾性を排したモダニズムの建築は、全体から明快に分節された構成部分に、建材の肌理以上の表情をもたせず、部分を全体構成に従わせるのとは対照的である。圧巻は記念館東西の外壁(幅約10m、高さ約9m)を占める陶片モザイク。記念館の設計を始めた1959年の大多喜町役場を皮切りに、1961年に東洋女子短期大学と東邦商事屋上で、今井は陶片モザイクと呼ぶ壁画を制作している。記念館の陶片モザイク壁画のスケッチが1960年に描かれているので、これらは記念館に向けた試行と位置づけられるかもしれない。割れた茶碗や火鉢など、1度は不要になったやきもののかけらを集めてつくる方法は同じだが、今井は記念館のそれをフェニックスモザイクと呼んだ。「命なき陶片に永遠の命を与える喜び」を、不死鳥に喩えたのである。モダニズム全盛の当時、まったく無視されていたガウディを今井が評価し、崇敬していたことはよく知られている。敬虔なカトリックだったガウディが好んだ陶片モザイクを、長崎の殉教記念館で追体験することは、今井にとってはガウディ精神の内面に実証的に迫る探究でもあった。
図書館入り口がある東の「望徳の壁」は、超自然的希望を表す暁月の星の淡い光の中に、超自然的な生命樹が上に向かって伸び、傍の大きく育った木には殉教の血のリボンがかかる復活のシーンである。西坂側なので色調も穏やかで、陶片の密度も高い。一方西坂からは見えないが、稲佐山から遠望できる西の「信徳の壁」は、巨大な十字架と聖心を中心に、鳩を象った聖霊の賜から右下に向かって伸びる光の中を天使が舞い、下部では火焔が殉教者26人分の十字架を焼く殉教のシーンである。火鉢やお猪口、柿右衛門の茶碗などは人びとの生活を想像させるものだが、1,000度を超える火熱に何年も耐えて、漆のような光沢を帯びた窯片は、殉教者のシンボルとして用いられ、火焔の中で焼かれる十字架を象っている。これらの陶片、窯片は、今井が早稲田大学の研究室のメンバーと行った窯元巡礼によって集められたものである。まず常滑焼を手始めに、瀬戸、織部、泰山タイル、信楽焼火鉢の窯元を訪ねまわり、聖人にゆかりの深い京都周辺の陶片を集め、九州ではかつて二十六聖人が辿った土地の窯元(福岡の高取焼、佐賀の唐津焼、古唐津焼の飯洞甕史蹟、伊万里の鍋島焼、波佐見の白山陶器工場、有田の12代酒井田柿右衛門の窯場、有田のタイル工場)を訪ね、殉教者の足取りに自らを重ねていった。長崎の有名な料亭花月からも器の寄付を受けた。壁画制作には研究室の画家、図案家、建築家、今井の4名と、東邦商事屋上の陶片モザイクを施工した京都の職人衆が参加。今井も連日現場で陣頭指揮に立ったが進捗ままならず、10日のはずだった滞在期間は1カ月に伸び疲労困憊していくが、そのことも殉教した聖人たちとの一体感に繋がっていったことだろう。
竣工60年の2022年に「信徳の壁」、翌2023年に「望徳の壁」の修復が行われた。テレビ報道番組によると、「信徳の壁」の一部には、妻の形見の皿やガウディ協会から送られた陶片が含まれているという。引っ張れば外れてしまうものは1度外して洗浄、劣化の激しいものは焼き直し、褪色したものは色を足すなど、陶片ひとつひとつに向き合った丁寧な補修が行われた。壁面右上に蝟集した丸い椀や皿は、地元の西坂小学校の子供たちの手で、星の瞬きを表すモチーフで絵付けされ焼き直されたもの。フェニックモザイクの制作には、材料調達から施工、補修まで、どの過程にも普請的要素が入り込む余地があり、そこに登場する人やものが繋がって力強い物語が紡がれる。

【写真資料】陶山神社(1658年、佐賀県西松浦郡有田町)

400年前に泉山で陶石を発見して以来この地にて陶器製造が年々盛んになり、1658年に社殿を建て創建した

1888年に奉納された磁器製鳥居。すべて有田焼でできている。2020年に修復された。

辻精磁社(1664年、佐賀県西松浦郡有田町)

トンバイ塀に囲まれた辻精磁社は、武雄温泉新館の大正天皇のための浴槽の有田焼タイルを製造した。350年以上の歴史がある。

辻精磁社のトンバイ塀。トンバイとは、窯を壊したり改修したりする際にでる廃煉瓦のこと。有田焼を焼くために薪により何千回と焼成と冷却を繰り返したトンバイは、廃材というより究極のやきもの。

香田陶土(1889年、佐賀県嬉野市)

1889年創業の陶磁器粘土製造販売する。主に肥前地区(有田、波佐見、伊万里)の窯元、陶芸作家へ供給している。

原料山では、不純物の度合いにより分別されて採掘される。陶石を粉砕し水を加えて陶土を生産している香田陶土では、不純物の少ない陶土から、特上陶土、選上陶土、選中陶土と分類して販売している。

九州陶磁文化館(1980年、内田祥哉、佐賀県西松浦郡有田町)

陶磁器専門の美術館で、伊万里焼や唐津焼などの名品を多く収蔵。外壁には有田焼によるタイルが使われている。

外壁のタイルは有田焼の特徴でもある白磁の白さが際立つものを使用。40年以上経た今でもまったく変わっていない。

日本二十六聖人記念館(1962年、今井兼次、長崎県長崎市)

日本二十六聖人の顕彰を目的としてカトリック教会によって設立された博物館。東京に本格的な地下鉄ができる1927年に駅の設計を担当した今井は、欧米の地下鉄の駅に倣い識別のために駅ごとに色合いの違うタイルを用いていた。その後、タイルによる装飾を好んで行ったガウディの建築に深く感銘を受けた今井は、殉教者を賛美する信仰心なども含めてガウディの建築要素を数多く取り入れて、この記念館や教会の尖塔の外壁にカラフルな陶片を用いた。

左に聖フィリッポ教会、右に日本二十六聖人記念館を見る。長崎らしい急坂の中腹に建つ。

①:東側の壁画「望徳の壁」。
②,③:西側の壁画「信徳の壁」近景。今井は、26人の殉教者が連行された京都から長崎までの道にある窯元を訪ねてまわり、そこで集められた陶片を用いて壁画をつくり上げた。今井は、この作風を「フェニックスモザイク」と呼んだ。老朽化に伴い、2022年に「信徳の壁」が、2023年に「望徳の壁」が修復された。

聖フィリッポ教会(1962年、今井兼次、長崎県長崎市)

ひときわ目を引く2本の塔を有する教会。教会名は二十六聖人のうちのひとりで、メキシコ人初の聖人となったフェリペ・デ・ヘススに由来する。陶の高さは約16mで、正面に向かって左の塔は祈りと賛美の塔で、右の塔はお恵みが下がってくる塔とある。

①:外観。
②:塔の壁面に施された陶片は、今井が京都から長崎の間にある窯元を巡礼し集められたものや、メキシコやスペインの有名な陶芸家から贈られたもの。青、黄、赤など多彩なタイルの欠片と日常的に使われた草花などが描かれた陶食器の欠片が絡み合いながら教会の尖塔を飾っている。
③:教会内部。

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公開日:2024年06月26日